静岡報告'99

「世界お茶フォーラム in 静岡」第3分科会<午前の部>の概要と感想を記します。


第1テーマ「茶の伝来」
      村井康彦(滋賀県立大学教授)


「日本に初めてお茶を持ってきたのは栄西である」と、お茶についての本の
筆頭によく書かれていますが、それはまちがいである、との発言から始まりました。

栄西(えいさい)は、
鎌倉時代・臨済宗の僧。宋に2回行き、帰朝の際、喫茶の習俗と茶の種を持ち帰り、一時中絶していた
茶の栽培、喫茶を再興したとされます。「喫茶養生記」を著しました。

日本には在来種の茶があり、栄西が持ち帰ったのは宋代の茶の作り方や飲み方であるようです。
ここでいうお茶は、抹茶を指します。
全国各地に茶祖伝説があり、いろんな時期にいろんな人が種や木を持ち帰ったのでは、
と考えられています。

「喫茶養生記」は、二日酔いの源実朝に一服の茶とともに贈ったと言われる書物で、
上巻に茶の効用や栽培・製法を、下巻に桑の効用について記しています。
この書によって抹茶の技術が伝えられました。
ほとんど中国の文献「大平御覧」を孫引きしているそうです。

栄西から茶種をもらい受けた明恵(みょうえ・華厳宗の僧)は、京都の栂尾(とがのお)にその茶を植え、
評判のよいお茶を得ました。
お茶の産地を当てる闘茶では、栂尾でとれたお茶は「本茶」、それ以外は「非茶」と呼ばれました。


>日本茶について勉強しはじめたところのティー太にとっては、お茶の歴史は初めて聞くことばかり。
>学校教育の社会科では世界史をとっていたので、日本史に絡んでくるとあまりわかりません。とほほ。
>日本茶はいつから飲み始められたのか。縄文時代からあったのではないか、とも言われていますが、
>まだまだ謎の部分が多いようです。



第2テーマ「茶の製造と文化:覆いの下をめぐって 〜茶の湯文化〜」
      坂本博司(宇治市歴史資料館主任)


抹茶は、よしずやわらで覆った茶樹から作られる碾茶(てんちゃ)を臼(うす)で引いて作られます。
このような覆いをされた茶園は、「覆下茶園」(おおいしたちゃえん)と呼ばれます。
覆うものは、今では化学繊維でできた寒冷紗が広く使われています。

碾茶煎茶の違いは、栽培方法と製茶の方法にあります。
碾茶は茶樹全体を遮光して育てますが、煎茶は遮光しません。
摘み取った茶葉を、煎茶は乾燥させながら揉んで仕上げていきますが、
碾茶は揉まずに乾燥させます。

次のような流れで抹茶は作られていきます。
1。立夏から4〜5日後ごろに収穫。新芽だけを摘まないといけないので、手作業で行われる
2。茶葉を焙炉(ほいろ)の上で乾燥(碾茶ができる)
3。梅雨のあいだ茶壷に入れてねかせる
4。秋口に茶壷の口を切り、「葉先の柔らかいところ」「葉脈の絡んでいるところ」「葉芯のところ」
  と選別する
5。石臼で引く。お茶の良し悪しはこの臼で決まる
( 現在は、製茶技術の発展により、多少製造過程が異なります)

静岡にも覆下茶園はありましたが、宇治が圧倒的に多かったようです。
茶園全体に覆いをつけるのですから、その材料を仕入れて覆いを作るには大変な手間とお金がかかります。
それなりの投資が必要で、茶師・販売ルートがないと作られないでしょう。
茶の湯を大成した千利休が関西で活躍したことを考えると、
宇治に大きな覆下茶園ができたことも自然な流れです。


>関西で売られているお茶は、ほとんどが宇治茶です。
>ですから、他では宇治以外の抹茶もたくさん出ているのかと思っていました。
>前々から、抹茶は高いなあと感じていましたが、これほどまで栽培にも製茶にも
>手間がかかっていると知って、納得しました。
>最後の方で坂本氏は、
>「最近の平等院の風景でだいぶ変わったなと思えるのが、若い人が抹茶ソフトクリームを
>食べながら歩いていること」「抹茶の新しい活用の仕方だ」と述べていました。
>「抹茶やん」は、それの集大成ですねえ。ははは。

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